絶対とは?
 この作品中には「絶対」という言葉がしばしば出てきており、この作品のテーマに関する考察から、この言葉は作品のメインテーマの鍵となる表現であると私はしました。では、そもそも「絶対」という概念は一般的にはどういったものなのでしょうか。それについてここで考えてみましょう。(ここもしょせんは素人の勝手な考えに過ぎませんので、そういうものと思って見てくださいね^^;)

 絶対という概念を理解するにはその対語である相対とセットに考えると分かりやすいです。相対的なものとは視点を変えることによって、対象の映る姿が変わるもののことです。例えば80点というテストの点数が良いか悪いかは、100点を目指した人からすると悪いですし、50点取れればラッキーと考えていた人からすると良いとなるわけですからまさに相対的なものです。一方で絶対的なものは、どんな視点から見ても同じように映るものです。80点が良いか悪いかは相対的でしたが、80点という数字自体は誰から見ても変わるものではありません。こういうものを一般的には絶対的なものと呼ぶのです。

 この概念は次のように定式化するとさらに考えやすくなります。

 ・相対的なもの=前提条件を必要とするもの
 ・絶対的なもの=前提条件を必要としないもの

例えば、先ほどのテストの点数が良いか悪いかについては、「〜から見た場合は」というのが前提条件です。要するに視点とは前提条件なのです。絶対的なものはどんな視点から見ても、つまりどんな前提条件においても結論が変わらないわけですから、これは前提条件が必要ないのと同意なわけです。

 しかし、このように考えて厳密に追求していくと絶対的なものなどというものはこの世界にほとんど存在しないことに気付きます。先ほどの80点という数字を例にしますと、これも実は80という数字の概念が共有されていることが厳密には前提条件として必要です。そして、さらに追求すると数字の概念とは何かを説明する前提条件も必要になります。この数学的な方向性で追求を続けると、最終的には証明不可能なもの、つまり公理に突き当たります。ここから先の前提条件は存在しません。したがって、これは絶対的なものと呼べそうです。同様に宗教的な方向性で追求すると最終的に到達するのがいわゆる絶対神なのです。つまるところ、この世界の多くのものは、数少ない絶対的なものを出発点にした相対的なものなのです。

 厄介なことは、絶対的なものには前提条件が存在しない、つまり証明不可能というところにあります。究極的な絶対的なものとは、ある論理による思考の限界であり、その思考を成立させるために仮想の出発点とせざるを得ないものに過ぎないのです。出発点が仮想ということは、結局のところ私達の信じるあらゆるものさえも仮想を出発点とする幻想に過ぎないわけです。

 しかし、自分の信じるものを幻想などと考える人はあまりいません。なぜなら幻想であったとしても、ある集団全てに共有されているような幻想なら、その集団の中に限定すればそれは絶対的な真実となんら変わらないからです。しかし、それをその集団の外から見ればやはり幻想でしかないわけです。例えば、私達の多くは自らの社会の倫理・正義などを絶対的な価値観と信じていますが、これは私達の社会がそのおかげで成立しているという現実があり、その現実は幻想ではないからです。しかし、私達とは異なる価値観で成立する社会を含む範囲にまで視野を広げると、それは現実ではなくなり、再びその価値観を幻想へと引き戻します。

 問題はここにあるのです。ある集団の内側では真実、その集団の外では幻想、ということでは全体としては矛盾なわけです。仮に全人類全てを完全かつ永久に取り込めるような幻想が存在するなら、まさにそれは真理と呼べるわけですが、いまだかつてそんな幻想は見つかっていません。恐らく現代科学がそれに最も近い幻想なのでしょうが、現代科学も実験結果を出発点としている以上、「その実験結果は神の偽装工作だ」と考え神を信じ込む人、その実験結果を知覚する私達の五感や脳や思考回路を疑う人などまでは完全に取り込めないように限界があるのは事実です。

 このように自らの外側の幻想に真実を見出そうとするのではなく、自分の内側を出発点として確固たる価値観を形成しようというのがこの『天使な小生意気』の「絶対」です。自分にとってそれ以上の前提条件を必要としない価値を絶対的な出発点として、幻想を自分の中の真実へと昇華しようというわけです。自分の外側に絶対を見出そうとする人間という生き物のあり方に疑問を感じてきた私にとって、この『天使な小生意気』の発想はまさにタイムリーな概念で本当にいい勉強になりました。

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