DEATH NOTE 〜what is right?〜         Last Update 2006/05/22
 ・・・ちゅうことで専用ページを作ってみましたよ(笑)。 まぁ、レイアウト・構成がしやすいこのページにて整理しただけで、そんな大袈裟なものでもないですけど^^;
はじめに
 このページは『DEATH NOTE』(漫画・小畑健 原作・大場つぐみ/集英社)の内容についてネタばれしていますので未読の方等はご注意ください。なお、私自身は単行本を所有しておらず、ジャンプでストーリーを追いかけていただけですから、細かい内容はあまり把握していません。そういうこともあって、このページは作品考察とか解釈とかではなくて、あくまで私がこの作品をどのように読んでいたのかを雑文的にまとめてみただけですから、作品内容と直結していない可能性が極めて高いです。まぁ、単に無駄に長い感想文みたいなものだと思って読んでいただけると助かります^^;

 なお、ページ内容の性質上一部原作のセリフ等を引用しています。(いや、実質的に1箇所だけですけど。だって単行本持ってませんから引用しようと思ってもできないんですよ^^;)問題があれば対処しますのでこちらまでご連絡ください。

勝ったものが正しい
多様な価値観の混在する世界
 現在世界には宗教・法律といった広範囲を網羅する価値観から信念という個人レベルの価値観に至るまで数多くの価値観が混在しています。これらの価値観は独立性を持って存在することもありますが、時に互いに矛盾し、衝突します。一方の価値観から見れば他方の価値観が間違えていることがあり、逆もまた然りだからです。この矛盾は各価値観がそれぞれの枠内では正当性を持っていることに起因しています。ではなぜ各価値観はそれぞれにおいて正当性を持っているのでしょうか。
価値観の正当性
 そもそも価値観の正当性はどこにあるのでしょうか。例えば、「人を殺すことは悪である」という我々にとっての常識は普遍的な価値観なのでしょうか。ある人は「他者を思いやる気持ち」を、別の人は「人を殺すことを悪としないと社会は成立しない」ということを根拠にすることでこの考え方の正当性を主張するかもしれません。しかし、こういった回答に対しても「他者を思いやる気持ちが善である」や「社会を成立させる」ということに対する正当性の根拠を問いかけることが可能です。そして、たとえこの問いかけに対して根拠を見出しても再びその根拠の正当性が要求され・・・。

 このように正当性をめぐる考察は延々とさらなる正当性を追い求めることとなり、我々はあらゆる価値の正当性に根拠を見出すことができない・・・のかというと別に昔はそんなことはありませんでした。「神が存在する」と考えていたからです。神とは定義上完全なるものである以上、それ自体として正しいわけですから、この神の存在によって、この神に立脚した価値はその正当性が保証されるようになるわけです。まぁ分かりやすく極端に言えば「なぜ人を殺すことが悪いんだ」という問いも「神がそうお決めになられました」の一言で全てが解決するわけです。(いや、ホントはそんなに単純なもんじゃないんでしょうけど^^;)

神の死
 一方、神に依拠せずに世界を説明しようとする自然科学なるものも徐々に台頭し始めます。この自然科学を支えるものは神ではなく、徹底的な世界の観察であり、さらに言えば、その洞察をなす人間の認識能力なのです。この科学の発展は凄まじく、それまで神が存在すると仮想することでしか説明できなかったような事柄について神なしで明瞭に説明する理論を次々と開発し、さらにその理論に基づいて世界の動きを予測することにまで成功します。これに伴って、神の立場が徐々に危うくなっていき、世界は科学に基づく合理的なものへと変貌を遂げます。

 このように神が脆弱になりそれに取って代わるように科学が支配力を強めたこの社会ですが、この近代科学に基づく合理的社会は、倫理的な問題に対して弱いという問題を抱えています。例えば、「人を殺すことが悪い」という概念に対して、「人を殺すことを悪とすることで社会が成立し、我々は普段殺されるという恐怖に怯えずに生きていくことができる」などといった説明がこの社会では主流となりがちです。こういった説明では、善悪の基準は特定の状況に依存した相対的なものでしかなく、このような善悪の基準の不安定性に気持ち悪さを感じる人が多いわけです。

個人の信念
 神の弱体化に伴い、自らの行いを正当化する価値を見出せなくなった結果、この世界には「何が正しいのか分からない」と絶望する人が現れたり、脆弱になりつつあるとは言え正しさをはっきりとその内に秘める神を再び求める人などが現れたりします。しかし、こういった現実に対して絶望することもなく神に救済を求めることもなく、自分の信じる特定の価値に絶対性を見出し、それを基盤に自分の中で価値観を構築することで、自分の中で自らの行いを正当化し、自分の信じる正しさを貫き通すという強い信念を持った人も登場します。

 この個人の信念は、自分の中でその正当性を定義している以上、世界全体に共有されるような普遍性は持っていませんが、その代わりにその人がそれを信じ続ける限り、決して外的状況によって揺らぐことがないという不変性を兼ね備えています。そして、時に似たような信念を持つものが集まって共同体を形成し、その共通信念を基盤にした価値観を持った集団が登場することもあります。

神の存在する世界・神の存在しない世界
 以上から神の存在する世界と神の存在しない世界の特徴を大まかにまとめてみると以下のようになります。

◇神の存在する世界
神という完全絶対を基準にした普遍的な善悪観が存在する。
人間はこの神という絶対存在に依存する存在として
絶対的な孤独から解放されるが、
それは同時に神に支配される存在として人間の自由を奪う。

◇神の存在しない世界
あらゆる価値の根拠が揺らぎ、人間は自らの行いを正当化する術を世界に見出せない。
これは人間に全てを決定する自由があると言えるが、
同時にすがりつく可能性を究極的に自分自身以外に見出せないという絶対的な孤独とも呼べる。

勝ったものが正しい
 このように、正しさの根拠を説明することが困難になった現代社会においては、それぞれが正しさを求めて、神を信仰するものから個人の信念を貫くもの、さらにはその共同体などそれぞれが自らの枠内に正当性を持った集団が登場し、まさに価値観の混沌の時代へと突入することになるわけです。そして、それぞれの価値観が正当性を主張することが可能になったこの混沌の時代は、結果的に世界全体としてみれば「勝ったものが正しい」という極端な考え方が最も正当性を持つ、という非常に気持ちの悪い状態に陥りつつあります。例えば「○○はあの戦争に勝ったおかげで正しい人と認識されているが、負けていれば逆に悪人として歴史に名を残していたはずだ」といった考え方などがその典型的な例です。本ページでは『DEATH NOTE』という作品を以上のような文脈の元で読み解いていきます。(えーっと、つまり実はここまでは単なる前置きです。えらく長い前置きやなぁ・・・^^;)
月の戦い
 幸か不幸かDEATH NOTEを手に入れてしまった夜神月は、自分がこのノートを正しく使うことができれば、実質的に「勝ったものが正しい」状態に終止符を打ち、絶望感の漂うこの世界を自分の理想とする善き世界へと導けることに気付きます。それは、まさに月の信じる正義、すなわち自らの信念の普遍化への挑戦の始まりだったのです。
月(ライト)とLとニア
 本作品の主役である2人は名前(右と左)と同様、その立場も対極に位置するものとなっています。しかし、いずれも自らの信じる正義(信念)を頑なに、そして最期まで信じ続けていたという点は共通しています。両者の信念の違いは、彼らの信じる世界のあるべき姿の違いに由来します。月は人間が平等に平和に生きられる世界こそが世界のあるべき姿だと認識しており、それは人間の自由よりもまず優先されるべきである、という考え方である一方で、L(ニア)はまず何より優先されるべきは人間の自由・自立であり、世界の平和はその上で達成されるべきである、という考え方です。これはすなわち2人の理想とする世界が、上述した神の存在する世界と神の存在しない世界の違いとも言えます。

 ただし、月の本当の理想は、人間の自由・自立と世界の平和の共存です。そして、DEATH NOTEの記憶を失った際の彼の言動から判断する限り、DEATH NOTEを持っていなかった頃の彼は実は前者を優先していた、つまりLと全く同じ立場にいた、いやむしろL以上にその考え方を徹底していたように思えます。この点ではLは、人権を最優先にする純粋版(つまりDEATH NOTEを持っていない)月とその父のせいで自分の思うように捜査できないことに不便さを感じている描写があったり、何より物語開始直後にあっさり囚人をキラの犠牲にしたりしたように、ある程度割り切った部分がありました。純粋版月に最も近いのはどちらかというと最後まで月を殺そうとしなかったニアでしょう。

 さて、ともかく純粋版月はDEATH NOTE入手後の月とは対極的な考え方をしていたわけですから、DEATH NOTEの存在が彼を変えたというのは間違いないでしょうが、その因果関係は、DEATH NOTEの誘惑に月が負けたというニアの指摘のような捉え方以外にも、元々月は何より平和を最優先に考えていたけれど、無神論者だったために、人間の自由・自立よりも先に平和が達成されることが原理的に不可能であると考えていたことに起因していると捉えることも可能です。火の無い所に煙は立たないように、DEATH NOTE所有以前の月にも潜在的に神の存在する世界というユートピアへの憧憬があったのかもしれません。

死は平等
 これはリュークが月に残した最後のセリフでもあるのですが、この死はすべての人間に平等であるという究極原理こそが月の価値観の普遍化への突破口でした。すべての人間に共通に存在する死、これを基準に善悪の価値観が世界中統一されれば、何が正しいのか正しくないのかが曖昧になっていたこの世界に全人類共通普遍の善悪観が生まれることになります。つまり、月の善悪観に基づいて死の基準をDEATH NOTEによって設けることで、月の善悪観が全世界普遍の価値観となるわけです。法律も基本的には似たようなことを目標にしているわけですから、実はそれほど驚くほど極端な考えではありませんが(即死刑という過激さを除けば)、現行の法の弱点、犯人を捕まえなければ裁けないという脆さがないという強みがDEATH NOTEにはあります(もちろん名前と顔が分からなければ裁けないという弱点もありますが、とはいえ現行の法もそれは同じですから少なくとも現行の法よりは弱点が少なくなっているわけです)。
完全勝利への道
 しかし、いくらDEATH NOTEを用いたところで、月の個人的な信念の普遍化は容易ではありません。世界には数多くの価値観が混在しており、その大多数において月のDEATH NOTEの使用は悪とみなされる行為だからです。そのことは聡明であり、しかもかつての自分がその考え方をしていた月が一番わかっていたはずです。それでも月はこの絶望感の漂う世界を変えたかったわけです。そのためには異なる価値観をすべて自分の価値観に取り込まなければなりません。これはある意味では自分が完全なる勝者になることで「勝ったものが正しい」を終わらせ「正しいものが勝った」を実現させる戦いです。自分が完全なる勝者となると同時にDEATH NOTEによって神の存在を世界に認識させることで世界の価値観を統一すれば、もう今のような(彼から見て)醜い世界にはならないと月は信じていたのです。
世界の価値の統一
 月の知的な戦略に加えて、この世界に絶望感を潜在的に感じていて神に救いを求めている人が意外と多かった(これは月の計算通り)こと、そして、何より次々と戦争・犯罪等が減少していく現実によって、徐々に神の存在が認識されていき(月の価値観が広まっていき)、既存の価値観を次々と破壊する(取り込む)ことに成功します。そしてついには法をも無力化するほど月の価値観が世界を支配することになります。このように、世界レベルでは月の計画は順調に進行していましたが、月の本当の敵はこういった広範囲に浸透する価値観ではありませんでした。
立ちはだかる個人の信念
 最後まで立ちはだかったのは、月と同じく自らの信念を貫く個人でした。前置き部分に書いたように、個人の信念は、自分の中でその正当性を定義している以上、その人がそれを信じ続ける限り、決して外的状況によって依存しないため、いくら月の価値観が世界に広まろうと彼らを取り込むことはできないのです。そして、中でも最も大きな障害は、その強い信念に加えて天才的な頭脳を持つという、まさにもう一人の月のような存在L(ニア)でした。

何が正しいか正しくないか何が正義か悪かなんて誰にもわかりません
……もし
神がいて神の教示(ことば)があったとしても私は一考し
それが正しいか正しくないかは自分で決めます
私もあなたと同じです
自分が正しいと思う事を信じ正義とする

このニアのセリフはまさに個人の信念の定義そのものですし(神からさえも個として独立しようという意味ではもはや究極レベル)、世界に神を必要としないL(ニア)のスタンスを表しているともいえるでしょう。結局、どちらも自分の信じる正義を実現するためには譲ることができず、最終的に世界の価値観の統一をめぐる争いは、個人の信念の争いへと帰着されるわけです。

信念を貫き通した月
 月はかろうじてLには勝利したものの、最終的にニアとの頭脳戦に破れ、月の目指した神のいる世界は実現されませんでした。月は負けました。負けた月はどうしようもないほど無様な姿でした。しかし、月が自分が間違えていたとか反省したりする姿を見せることは最後までありませんでした。ニアとの頭脳戦に負けたあとも、自分の正義を疑っていませんし、諦めずにニアを殺すことで自らの目指した世界を作ろうとしました。(作品中では描かれていませんでしたが、これはニアにとって予想外だったのではないのかと私には感じられました。彼は月とプライド(自らの信念)をかけて真っ向勝負の頭脳戦をし、それに完全勝利することで月(キラ)は止まると考えていたわけですから。まぁ、あれは負けてパニック状態に陥った月の最後の悪あがきと捉えればそれまでですけどね^^;)最期まで自分の信じた正義こそが正しいと確信していたことは間違いないでしょう。結局、キラを止めることはできても誰も月の信念を変えることは誰にもできなかった、つまり、月は最期まで自分の信念を貫き通したのでした。
不完全だった神
 月の敗因はもちろん月よりニアの頭脳の方が上だったことにあるわけですが、そもそもこの世界の住民の一人である月が神になるところに大きな無理があったのです。この世界の住民である以上、本来は彼自身も神である自らが定めた善悪の絶対基準に従わなければならず、自分だけが例外になどなってはならないはずです。彼に最後に立ちはだかったのは確かにニアでしたが、彼(ニア)の考えはここに書いたようにDEATH NOTEを手に入れる以前の自分(月)の考えそのものであり、ある意味最終的にそのニアに敗れたということはもう一人の自分に敗れたことに等しく、彼は自己矛盾によって崩壊したとも呼べるのではないでしょうか。(もちろん、作品上ではニアは純粋版月の象徴としてなどと描かれる描写は一度もなく、メロと共にLの後継者として、ニアとメロの2人でLが倒せなかったキラを倒したとはっきり描かれているわけですし、月の自己矛盾が描きたかったのならそのような演出を交えるはずですから、まぁ実際に作者にそんな意図があった可能性は極めて低いですが、個人的にニアの徹底ぶりが妙に印象に残ったものでこういう風に考えた方が作品として綺麗だなぁと私は思っているんですよ。いや、だから最初に書いたようにこのページは解釈とか考察ではなくてあくまで雑文ですから^^; まぁ、ニアの徹底さも徐々にエゴを丸出しにする月との対比と考えればそれまでですけど。)

 それから私が最も気になるのは、概念上は神になれるとしても物理的にはただの人間にすぎず永遠の命を持たない月が、仮にLを倒し概念上の神となることで自らの望む平和な世界が達成できたとして、自分の死後の世界についてどう考えていたのか、というところです。私の記憶ではそれに関する月の言及は一切作品中にありませんでした。月自身が人間の愚かさを強く認識していたわけですから、自分が死んでDEATH NOTEを自分のように(月にとって)正しく使えるものがいなくなれば、また混迷の世界に戻ることを想定していると思うのですが。うーん、自分が神である間に全ての人間の精神を完全なるものに導く自信があったのか、それとも最もふさわしい後継者を自ら探すつもりだったのか・・・。(まさか、自分が生きている間だけうまくいけばOKだったなんてことはないよね、ライト^^;)

勝ったものが正しい?
 さて、最終話において、月の死後世界は再び混迷へと戻っていったといった感じに描写されていました。まずキラから開放された日本の様子が、見る人によって肯定的とも否定的とも捉えられるニュートラルな視点で描写された後(語り合っていたのが月とLのどちら側ともいえない伊出と松田だったところがそのニュートラルさをより強調)、最後にキラ信仰がひっそりと続いている様子が描かれます。もちろんこれは、月は自らの望んだ世界こそ実現できなかったが最終的に概念上においては神になれた、ということを意味しているのでしょう。

 ところで、同じ混迷の世界とはいえ、最初に描かれた日本はどちらかというと、その世界の恩恵を受けている人の集団、つまり裕福に生きることができる国である一方、最後にキラ信仰している人たちして描かれていたのは(はっきりとは分かりませんが)おそらくどちらかというとその世界の弊害を被っている側ではないでしょうか。

キラに勝ったもの
 キラを止めたのは言うまでもなくLとその遺志を継ぐものたち、つまりLと似たような正義を信じたものたちでした。彼らが最後までキラに抗おうとしたのは、彼らの中での正義に従ったからですが、彼らにとっての正義とは、究極的には人間は自由であるべき(何かに支配されるべきものではない)というところに尽きるでしょう。何かの支配によって実現されるような平和は、本当の意味では平和ではない、と。ところで、改めて考えてみると、最後までキラに抗ったこの集団は、世界全体的に見れば既存の社会の恩恵によって裕福な生活をしている方であると思われます。つまり、彼らはこの既存の社会の中では強者であり(Lのような天才は既存の社会に限らずどんな社会でも強者でしょうけど^^;)、この社会で十分に生きていく余裕があるからこそ、人間の自由を奪うキラ社会による平和は正しくないと考え、抵抗しようとできたと言えるのかもしれません。
キラを信じるもの
 一方、キラを信仰するものたちについて考えてみると、確かにキラに殺されるのがイヤという消極的な理由でキラ社会を受け入れた者も数多くいるでしょうが、少なくとも既存の社会よりはキラ社会の方が生きやすいと感じてどちらかというと積極的にキラ社会を受け入れた人もたくさんいるのではないでしょうか。特に、既存の社会において、いわゆる発展途上国を生きる人々や、戦争・紛争等によって常に生命の危機にされている人々にとっては、自由・自立などよりも欲しいのは明日生きられる保証であり、そういう人たちにとっては、キラ社会は既存の社会よりも明らかに生きやすいはずですから、キラ社会を受け入れるのはある意味当然のことと言えるでしょう。つまり、既存の社会の弊害を被るものにとっては、キラ社会の方が望ましかったわけです。
勝ったものが正しい?
 このようにLと月が死んでからも最後までLの遺志を継ぐものとキラを信じるものという形で両者の関係が対比的に描かれているのですが、どちらが正しいのか悪いのかに関する明確な描写は最後まで皆無でした。従来の作品では、程度の違いこそあれ、どこかで(大抵は物語終盤で)人は○○であるべきだみたいなニュアンスがにじみ出てくるものなのですが、そういったメッセージ性がこの作品では極めて希薄だったように少なくとも私には感じられました。それは、この作品が最後まで貫いたのはニュートラルな視点に起因すると思われます。何が正しいのかについて深入りすることなく、主要なキャラクターの死も大げさに描くわけでもなく、とにかく淡々と話を進めていきました。

 もちろんエンターテイメント性が損なわれないように、月を視点に、しかも月の方がLより頭脳的に劣る印象を読者に与えることで、月がいかにしてこの天才Lを凌駕するのかという、どちらかというと月寄りな立場で読者が読みがちな作品として作られている感があって、完全なニュートラルというわけではありませんが、その代わりにラストで月の醜態を徹底的に描き、そして、長きに渡って月のそばにいたリュークも最初の宣言通りどちらに味方することなくあっさりと月を殺します。

 特にこの最終場面の描写などこれでもかというほどニュートラルな視点で描かれていました。長年月のそばにいたリュークに月を想う人間的な感情が芽生えて、月を助けるために(月の寿命を延ばす手助けをして)消滅したり、もしくはリュークから死の宣告を受けて死に怯える月が「あー、僕が殺してきた人間もこうやって苦しんできたんだ」などと自分が間違えていたと反省させる描写をし、そうすることによってL(ニア)側の正当性を強調したりするとか、そういう従来の作品ならやりそうなことはこの作品では一切起こらず、死んでいく月をただただ冷徹に描くだけで、勝ったニアが正しいとするような描写も特にありませんでした。

 多様な価値観が混在・交錯し、それぞれが正当性を求める結果、勝ったものが正しいとなりつつある現代社会を象徴したDEATH NOTE世界を、この残酷なまでに冷徹な視点で描き切ったこと(それはまさしく勝ったものが正しいの否定)、明快なテーマの見出しにくいこの作品ですが、この冷徹な視点こそがこの作品のメインテーマだったのかなぁとぼんやりと私は思っています。もしかすると、これこそが真の神の視点なのか・・・。(いや、そもそもこの作品は何よりまず超がつくほど最高級のエンターテインメントであり、テーマとかそういうのをあれこれ考える系統の作品ではないと正直思っているのですが^^;)

そして伝説へ・・・
 私はどうも月が好きみたいです。どうして私はこうも月に惹かれるのか?

私の中の史上最強漫画ドラゴンボールの中でも最も惹かれたキャラクター

最強フリーザ様とダブるのです。

超がつくほどのプライドの高さ。普段は冷静で余裕たっぷり。そして、そのギャップが生み出す狂気。

フリーザ様のセリフを月が言っていても何の違和感もありません。

 フリーザ様が超悟空に負けることでそのカリスマ性をより確固たるものとしたように、月はニアに負けることで神でさえ怯えて手が出せなかったフリーザ様と同次元のキャラクターとして伝説になったのです。

(↑ネタっぽいですけど、ほぼ本音ですよ^^; 私の中でフリーザ様・月を超えるキャラはこの世界に存在しません。)

 ちなみについでですけど、私がてんこな考察で扱った信念の考え方の最大の問題はこの作品に表れています。究極的な信念の行き先の一例が月でありLなのです。極端すぎるわけですよ。歴史的に見ればてんこな的信念ではヒトラーさえも強い信念を持つものにあたるわけですよ。うーん、強すぎる信念も考えものですね^^;

てんこなページへ戻る