最後にそもそも考察とは一体どういう作業なのかを考えてみましょう。(ちなみにこれはずいぶん前に書いた文章を一部改正したものですが、勝手な前提条件のもとであたかも事実のように話を展開してしまっています。その手の専門家から見ると突っ込みどころが満載でしょうが、しょせん素人の独り言だと思って見ていただけると助かります^^;) ◇ある人のイメージを他者が受け取るまでの過程
ある人が持つイメージを他者が受け取るまでには大きく分けて以下の2段階の過程があります。
1.ある人が自らの内面にあるイメージを他者と共有できる何らかの形に変化させる
2.受け取る側はその共有できる形の何かを自らの内部に取り込み、
それを自らのイメージに変容させる
人が自らの内面に持つイメージは、この世界に実在するものと違って無限であり、明確な形や境界を持たずに常に少しずつ変化を続けているものです。したがって、イメージは、有限という制約のある外側(すなわちこの世界)に飛び出すことが出来ず、その本人の内部にしか存在しえないものなのです。(ここではこれらを前提条件として考えます。)しかし、このままでは人が自らの内面に持つものを他者と共有することが出来ませんので、人は、絶えず変化するイメージの瞬間を捕まえ、曖昧な部分を削ぎ落とし、明確な形として抽出します。こうして初めて、無限だったイメージは他者と共有できる有限形へと変化するのです。その形態の代表例が言葉です。
しかし、人は有限形を有限形のまま認識することができません。したがって、ある人が有限化した何かを別の人が認識するには、それを内部に取り込みイメージへと変換させないといけません。例えば、「ありがとう」という言葉を認識するには、「あ」「り」「が」「と」「う」という単なる有限のかけらを自分の内面で結合させ、自らの内面で意味を持つイメージ(無限)へと昇華させないといけないのです。
これらの過程で問題となることが2つあります。ひとつは、ある人がイメージを共有化するために行った「無限→有限」という作業で削ぎ落とされた部分はその人の内部に残るため、それを他者が絶対に認識できないということです。そして、もうひとつはその共有化されたものを取り込んだ人がそれをイメージ化する過程にあります。イメージはその人の内部にしか存在しえないということを思い出しましょう。すなわち、共有可能なのはあくまで有限化された部分だけであり、それをイメージ化したものは人によって異なるということなのです。(また、イメージ化する際に先程削ぎ落とされたものを補うこともしばしばありますが、イメージ化したものが人によって異なっているという事実がある以上、これにより一つ目の問題が解決されるわけではありません。)ここでうまくいかないと、ある人のイメージが他者へと正確に伝わらないのです。
◇考察は作者のイメージを他者が再生しようとすること
作品というのは言うまでもなく作者の内面のイメージが具現化されたものですから、上述したようにその過程で多くのものが削ぎ落とされているわけですが、作品が出来上がる過程はもう少し複雑です。作者は、単純にイメージを伝えるために有限化するだけではなく、有限化されたものの美しさを求めてそれを複雑に構築するからです。つまり、作品というものは作者の内面のイメージが構築物として有限化されたものであるわけです。
作品を考察するという作業は、その構築物を生み出した作者のオリジナルのイメージを捉えようとすることですが、上述したように人が内面に持つものは共有されることは不可能ですから、我々が作者の持つ真のイメージをそのまま捕まえることは不可能です。したがって、「考察」という作業においても、相手のイメージを受け取る作業と同様に、考察するものが自らの内面でイメージを形成するしかないのです。つまり、有限化され共有可能になったその構築物からオリジナルのイメージを捉えようとする作業が考察なのです。
作品は、単語のような単純な有限形と違って複雑な構築物であるため、視点によって映る姿が異なってくることがしばしばあります。したがって、どのような視点でその構築物を見るかは「考察」の結果に大きく関わってきます。そして、その自分の視点に基づいて私達はその構築物を自分の内面に取り込もうとするのですが、上述したように私達は有限形を有限形のまま認識することはできませんから、まずこの構築物を自分にとってイメージ化しやすい形に解体する必要があります。その後に、作者のオリジナルのイメージを想定し、削ぎ落とされたであろう部分を補填しつつ、自分の内面でそれらを再構築するわけです。以上の一連の作業が「考察」なのです。
構築物を見る視点は言うまでもなく自分の視点でしかありません。また、構築物を解体・再構築するというこの作業は当然自分の内面で行うわけですから、その際に私達が頼れるものも当然自分の内面にあるものしかありません。つまり、視点・解体の切り口・構築する手段、これらはその人の経験・知識等に依存するわけです。結局のところどんな「考察」であっても個人の次元を超えることはありえないわけです。
このように作者の中にある作品の元となるイメージから他者がその作品を考察するまでには、様々な過程があり、作者のオリジナルのイメージを再生するのは非常に困難(ほぼ不可能)であることは明白でしょう。当然このサイトの考察も例外ではありません。このサイトの考察は、管理人の視点で捉えた『天使な小生意気』という構築物を自らの切り口で自分の内側において解体・再構築したものを、再び有限化し外側に抽出したものです。したがって、このサイトをご覧になる方はあくまで『天使な小生意気』から一人の人間が作り出したイメージに過ぎないということを忘れないで下さいね。
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